土星より、淡彩の光点を望む

映画とか小説とか、自分の好きなことを書きます。

『山月記』解説

はじめに

 これまで『山月記』は、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」がこの短編の主題だとして読まれてきた。「自ら恃む」傾向の強い人間である主人公の李徴が挫折し、さらには虎になり、虎になった姿のまま、かつての旧友の出世した様を目の当たりにする。旧友との会話のなかで、自身の半生を振り返り、そうして「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に関する自己分析が語られる。自らの倨傲さと折り合いのつかぬまま、己の浅ましさを認めることは苦痛である。李徴は、「こういう人間にはなりたくない」と思いつつも、自分自身のなかに幾らかは認めなくてはならないような人間像として、半ば恐怖で持って受け止められてきた。たとえば、『ロリータ』がペドリフィアの存在を図らずも顕在化させたことに似て、『山月記』の場合では、現代人の自意識の強さ(とその行く末)を李徴は映し出しているのである。

 このとき、虎はシンボルと化す。

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが各人の性情だといふ。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

 李徴の言葉は、抑えが効かない羞恥心(自尊心)が自分自身を損なうに任せていたら、内心に相応しく外形も変わってしまった、ということになってしまっているのだ。

 以上のあらすじは、しかし、『山月記』が寓話として処理されるが故に通用しているにすぎない。それというのも、この理解では説明のつかない細部が残るのだ。「理由も分からずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」と言っていた李徴が、己の性情ゆえに虎になったのだと言うに至るのはどうしてか?これを説明できないのである。

 寓話は生きる我々にとって意味がある。だが、寓意はフォルムに疎いのだ。一流の小説と二流の小説の違いを寓意は説明できないし、小説でも、自己啓発本でも、ラジオでも、スピーチでも、寓意は畢竟どれでもよくしてしまう。

 これではあまりに貧しいだろう。

 なぜなら、『山月記』は散文の傑作でありつつ、ほとんどの日本人が読んだことのあるという、稀有な作品だからである。ここでは文体は問わない。俎上に乗せるつもりなのは、『山月記』の寓意であり、ここでの目的とは、その発生を問うことで、従来の読み方に肘鉄砲を食らわせることにとどまらず、『山月記』の新しい読み方を提示することである。

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『山月記』 李徴は虎になっていなかったのだ

 

 

 ここにあるのは、虎になったという男の話であり、1942年2月発表の『古譚』中の短編『山月記』だ。

 その発表は、33歳の中島敦が作家として立つ意志を手紙に書く5ヶ月前であり、喘息の発作で亡くなる10ヶ月前である。

 

1 怪異たれ、三流詩人たるよりは

 作中の李徴氏はカフカの『変身(1915年出版)』において、グレーゴル・ザムザが虫になるように、虎になったわけではない。

 僕の読みによる『山月記』のあらましは次のとおりだ。

 監察御史(隋代以降、百官の非行を検察し弾劾することを職務とした)の袁傪氏が、旧友で、「性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」李徴氏に出会うのだが、李徴氏の高邁な精神は厚顔無恥に成り果て、無惨な人間になっている。しかし幸いにも、袁傪氏は李徴氏が虎になったということを信じ続けていたおかげで、李徴氏の醜態は最後まで露見することなく、李徴氏の語り全体は残月の薄幸とした感じと林間の草地から聞こえる咆哮の余韻だけを粛然と残していった。

 

 李徴氏は狂ってもいないし、虎になってもいない。このことが『山月記』を傑作にしている。

 李徴氏は袁傪氏をはじめとして、袁傪氏の供回り、そして実は読者たちの同情を誘おうとするのだが、李徴氏の語りの根幹を成す「虎になった」が嘘である可能性によって、彼の語り全体がどんでん返しを喰らうのだ。この真実は、キプリングの短編小説と同様、作中人物ではなく、読者だけが気付ける仕掛けになっている。

 ざっと調べたに過ぎないが、この説を他では見つけられなかった。ちなみに、『現代日本文學体系63』の巻末の中村光夫の解説では、「あたかも『山月記』の虎がその前身たる李徴より一層詩人らしいように」と触れているだけだが、どうも虎になった李徴をすんなりと受け止めているらしい。

 

 その理由として挙げられるのは以下だ。

  • 駅吏は道に人喰い虎が出ることを言い、袁傪氏は道に躍り出た何かを虎と思う。しかし、その場所は、残月の光がわずかに照らしているだけの、ものの見分けがつきそうにない暗い道でもある。
  • 李徴氏はくさむらの中から姿を現すことはない。その声は人間、李徴氏の声と変わるところがない。
  • 別れを告げるのは、朝日が昇りはじめ、周囲の見分けがつく明け方である。
  • 「もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから」という李徴氏は駅吏の話と矛盾している。彼によると、人喰い虎が現れるのは夜中だ。また虎は夜行性の動物である。
  • (上につづいて)慣用句「虎になる」は、ひどく酔っぱらうの意である。
  • 李徴氏はわざわざ袁傪氏の帰途の道のりを気にしながら、人喰い虎になったらしい自身の処遇について一言もない。李徴氏は異常な事態に陥っているのにもかかわらず、彼が以前ならとったであろう態度や考え方は変わらぬままである。
  • 変身した先が虎であることに注意を向けたい。文中にあるように、虎は人からも獣からも恐れられている。他者と交わらずして、軽んじられることのないという点において、李徴氏元来の性からすれば理想ともいえる動物だ。
  • 不条理にも李徴氏は虎になったらしいのだが、何も損をしていない。李徴氏の話の中心である詩業は虎になる前にすでに失敗しているが、李徴氏は虎になったことの原因を自身の資質に求めることで、その失敗をスキップしている。いわば結果をすり替えることで、直視できないほどの悲惨さを甘受できる程度の悲惨さに塗り替えている。
  • 「あさましい」と「しるし」につく強調点に注意を向けたい。「しるし」とは勿論、彼の詩業なのだが、発狂した人間は発狂の根本的な原因を自分から口にしたりするだろうか?李徴氏は、虎になったことを指して「あさましい姿に成り果てた」というのだが、読者は、自信過剰から官吏を棒に振り、あげく家族を捨てたという、虎になったこと以上のあさましさを知っている。「あさましい」はそれぞれ違う意味を指しているのだ。ここの強調点は、李徴氏による袁傪氏へ向けた強勢ではなく、中島敦による読者への目配せだ。

 李徴氏にとって虎になるということは不条理な現実に見せかけた好都合な設定なのである。願いを取り下げる(詩人になることを諦める)やむを得ない事情というわけだ。この超現実な事情に誰も立ち向かおうとは思わない(これはカフカの『変身』と同様に)。虎になった李徴氏に、今さら彼の身勝手さ加減を責めようとは袁傪氏も思わない。詩人にはなれない覆すことのできない事情があってはじめて、彼は即興詩を披露するにいたれるのだ。

 ここまでくると、二人の境遇を描いた詩は無類の厚顔無恥と化してくる。李徴氏は虎になってはじめて、袁傪氏と並ぶことができたのだ。もし虎になる前だったら………地方官吏の李徴氏は自分を卑下することができたはずはない。彼は虎になってもなお、自身の本当の失敗については言えないくらいなのだから。

 即興詩につづく、臆病な自尊心と尊大な羞恥心の下りそのものも、自己に対する容赦ない告白では決してなく、揺るぎない不条理(という設定)に立脚することで自尊心と羞恥心を退避させた上の安全な告白だ。李徴氏の語りには羞恥心のかけらもなく、むしろ自己卑下に伴って友人の催す悲嘆こそ目的にみえる。「この天才が名を残さなかったことが惜しくてならない」と、袁傪氏が思うことを期待する李徴氏が浮かび上がってくるが、これではあまりに俗的すぎる。

 だから、息をのんで話を聞く袁傪氏一行に読者はほっとため息をつくのだ。彼らはおとぎ話を固唾をのんで聞く子どもたちにそっくりで、最終段落の咆哮に哀惜の念を覚えていそうな彼らに、ほとんど感謝を捧げたくもなる。もし仮に、一寸の疑念さえあったなら、声の主がいるくさむらを一行で薙ぎ払うことがあったなら………そこに潜む怪物は虎よりもずっと恐ろしい。

 

2 中島敦と李徴氏

 なぜ中島敦は李徴氏をこれ以上にないくらい恥ずかしい人間に仕立て上げたのか。

 この点には、『山月記』から離れたところに理由があると僕は思う。そのため、あまり興味をひかない。

 中島敦が生涯喘息に苦しめられた。彼はこの不条理に抗いつづけ、ついに勝った人だったようだ(そして、すぐに亡くなった)。李徴氏が不条理を理由に詩人たることを放棄したこととちょうど対を成している。中島敦はつまり虎になった程度では、詩業を諦めることのできぬ人であった。このあたりに、李徴氏形成の背景があるのだろう。

 

3 個人的な思い出

 辞書や漢和辞典をぱらぱらめくって読んでいると、こんなピンポイントな意味を持った言葉はどこで使うのだろうというものに出会う。芸術とは、未だどんな人間も創り出してはいないビジョンを発見するものだという定義を採用するなら、珍しい語彙を使うこと自体は芸術に寄与しないということになる。語彙は既知の意味なのだから。

 けだし、『山月記』の良さは、中島敦の採る語彙群がたちまち李徴をかたち作っているところにある。それらのどの言葉もまるで李徴を指し示すために作られた言葉かのようである。翻訳した小説が拠り所としなくてはならない、長々とした形容詞句を要さずにして、しかし、通俗的な語彙群には依らず、李徴という個性的な人格を作り出している。

 戯れに李徴を形容している語句を抜き出してみる。

 「狷介」、「峭刻」、「肉落ち骨秀で」、「眼光のみ徒らに炯々として」、「怏々として楽しまず」、「峻峭な」………

 僕はこれらの語彙に『山月記』の他で出会ったことがなく、もはや李徴を思わずにその語彙に向き合えないだろう。そして同時に、なんだかむず痒さを覚えるに違いない。

 『山月記』の第一段落をよく誦じていた友人がいた。経歴から鑑みるに立派な社会人になっているように思われ、彼の前に現れるには、虎か何かにならないといけないような気がしてくるのだ。

『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』解説

Picture: Fondation Chantal Akerman
中央に主演のデルフィーヌ・セイリグ、右手はシャンタル・アケルマン(当時24歳)、一番左が撮影監督のバベット・マンゴルト。

 

素描

 『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』は全編がフィックス(三脚に固定されたカメラ不動のショット)で撮影され、大半の時間はブリュッセルのアパルトメントの一室で過ぎてゆく。映されているのは、夫が亡くなってから数年経つ母子家庭の母親、ジャンヌである。死んだ夫は母親からも息子からも愛されてはいない。息子にとって父親は母親を奪う敵であり、母親にとっては、それまで暮らしていた叔母の家から抜け出すための手段だった。つまり、二人の生活は華美では全くないにしろ、悲嘆に暮れているような生活でもない。カナダに住む妹からは、寡婦のままでいることに心配されたはいるが、ジャンヌは今の気楽な暮らしを続けたいと望んでいる。

 「気楽な暮らし」は家事で過ぎてゆくのだが、1日のうちに詰め込まれた全ての家事はジャンヌ独自のルールとルーティーンで厳格に規定されており、例えば、朝の時間帯ならば、息子の部屋のガス式の暖房をつけること、やかんを火にかける、息子の靴を磨く、コーヒーを淹れ一息つく、息子を起こす、息子は朝食をとる、息子は家を出る、ジャンヌは息子の寝巻きをたたみ、息子の寝ているソファーベッドを折りたたむ、というルーティーンが決まっていて、劇中では、映画を構成する3日間のうち、2日目と3日目に繰り返される(1日目は午後の遅い時間にはじまる)。カットについて言えば、このアパルトメントを構成する、キッチン、ダイニング兼リビング兼息子の寝室、寝室、浴室、廊下を行き来するジャンヌに合わせて1ルーム1カットで切り替わっていく。家事仕事は1から10まで端折ることなく映し(皿洗いは、全ての食器を洗い終えるまで続き、その食器はこれまでに使った食器の枚数と一致する)、同じ部屋で次の家事仕事があればそのままカットは割らない。したがって室内劇としては異例にも、廊下を通過するショット以外は長回しである。

 他のロケーションには、ブリュッセルの街並みと靴屋、郵便局、デパートの手芸用品コーナー、カフェ、パン屋などがあり、店外の1カットに続く店内の1カットで構成されるか、あるいは、店内の1カットだけで構成される場合もある。外部の人間との束の間の交流がジャンヌをほんの少しだけ喜ばせているようだ。しかし、同時に、彼女が世界から隔絶していることを暗に示しているようでもある。

 1日のスケジュールは家事を中心として厳密に決まっており、空いた時間はほぼないというジャンヌの生活は、映画内時間がたった3日間であるも、結婚以来送ってきて、これからも送るだろう日常のように思われ、その通時性が普遍性に錯覚されて、ジャンヌがまるで自分自身の母親であり、母親であらぬ者は、初めて母の暮らしを垣間見ているような感覚になる。しかし、そのような錯覚に悠長に溺れることが許されぬのは、ジャンヌは母親である一方、売春婦でもあるからである。そして、シャンタル・アケルマンは恐ろしくも、売春すらこのルーティーンに落とし込んでいる。

 彼女は午後に一人、服装の違いから身分も様々なのだろうと思われる客を自分の寝室に招き入れる。客が帰る前に金を受け取ると、それをダイニングテーブルの真ん中に置かれた陶磁器の鉢(ヴィルヘルム・ハマスホイの室内画にあるものとそっくりだ)に仕舞う。このあと、寝室の換気をして、ベッドのマットレスの上に敷いたタオルをキッチンにあるゴミ箱みたいな洗濯籠に投げ入れる。そして、客を入れる前から火にかけていた鍋に取り掛かる。(ちなみに、ダイニングテーブルの鉢は、夕食の際には脇へどかされて、画面から見て左側にテーブルクロスを広げる。夕食のとき、フレーム外であるにも関わらず、ジャンヌの右手にちゃんと鉢が置かれていると感じられるのがこの映画の魅力の一つだ)1時間と少しくらいの売春は、朝に湯を沸かしながら靴を磨いたように、鍋に火をかけている間に行われ、終われば次の家事(夕食の残り支度)にすぐに取り掛かる程度には家事に馴染んでいる。この映画において売春と道徳意識は対立することなく、同居する。

 これが最終場面を除く、『ジャンヌ・ディエルマン』の全体像だ。家事と売春が構成要素であり、観客はジャンヌのことをルーズな画から垣間見る。

 

ショットについて

 『ジャンヌ・ディエルマン』は、おそらく全てのショットが同じ焦点距離のレンズで撮られている(例外があるとすれば、最後から二つめのカットだと思う)。撮影風景を写した写真には、ミッチェル社製BNCRカメラが写っているので、ビスタビジョンで撮られているようだ。いわゆるフルサイズと同じフィルム面積を使うビスタビジョンなら、この映画は大体35mmくらいの広角レンズで撮影されているのではなかろうか。小津安二郎が好んで使う50mmは35mmフィルムを縦に使用する規格におけるものであり(1フレームのフィルム面積が異なる)変換が必要なので、変換すると、小津の50mmに対して、この映画は24mmくらいのレンズを使用していると思われるということである。もっと簡単に言えば、比較的ワイドなレンズによってこの映画の全てのシーンを撮っているということである。

 もちろん、単焦点レンズ一本の撮影でも、フルショットもクローズアップも撮れる。その際、ショットのサイズ感はカメラと被写体の距離で決まる。カメラが役者によればクローズアップになるし、反対に引けば、フルショットになる。しかし、望遠レンズ(小津は中望遠)と広角レンズ(『ジャンヌ・ディエルマン』の場合)で異なるのは、どれくらい背景が出てくるかという点だ。小津の映画において画面上の小道具(湯呑み、茶碗、棚などなど)の配置が周到に行われていることは有名だが、50mmのレンズで撮影していることも、小道具の配置のしやすさに一役買っている。役者の背景に映り込む面積が狭くなるため、背景に何を置くかという選択が少なくなり、また、広角レンズで撮影した場合よりも、背景に置かれた小道具の一つ一つが目立ってくる。小道具のみならず、背景の窓や戸や別の人物などの場合もそうである。

 『ジャンヌ・ディエルマン』がワイドレンズによって撮られたことによって、長回しかつフィックスの1カットでも動き回るジャンヌが映っているという実用的な意義はある。だが、あらゆるものが映り込めば、画面の美しさはどうなるのか?

 いや、素晴らしいのである。たしかに、部屋に対して、いつも正対するでもない曖昧な位置にカメラを据えていたり、カメラの高さが座っているジャンヌより多少高くて、結果、部屋の垂直線や水平線の収まりが悪いところがあるかもしれない。カットごとで露出が安定していなこともあるかもしれない。だが、それが映画の欠点になることなど一度たりともなかったように思われる。そして、人物が画面手前から奥へ動こうとも、フォーカスを送ることすらしないという徹底は、もはやカメラに対する美意識としか言いようがない。

 映画において、画面上の美術の全てを目で追えることの楽しさ。夕飯に使った二人分の大皿がシンクに置かれ、翌日の朝食に使った息子の大皿の同じもの計3枚がちゃんと洗われている。さらにジャンヌはカゴに置いた皿に洗剤がまだべったりとついているのに気がついて洗い直す。こうした家具の行き場を覚えるのは、ドラマが一人の人間の人生を追うことの面白さに引けを取らない。あまりにも長いワイドのフィックスはスナップ写真を見るようにして、画面の隅々まで見渡せる。そして、ジャンヌは画面の隅々の家具や食器を動かしてくれるのだ。

 

ルーティーン、日々の出来事、ジェスチャー

 『ジャンヌ・ディエルマン』の上映中、経過時間からして終演は近いと思われたころになっても、この映画の終着点はどこか全く予想がつかなかった。それは、1日の終わりに現れる、「X日目おわり」の文字が何を意味しているのか分からなかった理由と同じところに由来する。ジャンヌの日常は彼女の結婚生活以来、送り続けていた生活のようで、そこからどの3日間を切り取ったとしても、同じ3日が過ごされると思われた。この映画において、ジャンヌの生活を変容させるような出来事は何も起きてはいなかった。起点なくして、終わりなし。だから、ジャンヌが果てた客を押し退けて化粧台に置かれた鋏を手に持ったとき、これほど映画的に知られ尽くした結末のことなど一切念頭になく、むしろ、その鋏の行く末の方に頭が向いていた。妹からの船荷を開けるのに使った、この鋏は一体どこから出されたのだったか、と。ジャンヌはそれを仕舞おうとしているのだと私は思い込んでいたのだ。だから、この鋏が客の胸元に差し込まれたとき、私は心から驚いた。おそらく、映画史上はじめて殺人がなされた映画を公開初日に観た観客たちと同じ驚きだったと思う。

 こうして8分間の最終カットの間、ダイニングに座ったまま、一言も話さないジャンヌを見ながら、彼女は母親であり、売春婦であり、人殺しであることに今更になって思い至る。この矛盾がどれも目減なしにジャンヌの中に同居しているということを疑問に思うことなく受け入れているという現象が驚くべき事態なのである。

 観客は、ジャンヌについてあらゆる疑問を寄せるだろう。たとえば、なぜ母であるにもかかわらず、働くことも可能でありそうであるにもかかわらず、彼女は売春することができるのだろう、という疑問。なぜ今までは殺さず、この日は殺したのだろう、という疑問。あるいは、彼女は座ったまま何を考えているのだろう、という疑問。だが、そうした疑問はジャンヌの存在自体を傷つけない。我々は、まるで現実の不条理に遭遇したかのように、多分に悲しみに暮れながら、ジャンヌ自体をどうしようもない不条理として受け止めつつ、彼女の行動原理や内面を考えようとしている。この映画は、彼女の内面に一度だって触れたことがないにもかかわらず。

 そう、この映画が200分かけて、見せ続けてきたのは、ジャンヌの具体的で秩序立ったルーティーンだ。また、ルーティーンの合間にある出来事、そして、ルーティーンに添えられるジェスチャーだ。豚肉を卵に浸したとき、滑らかに絡みつく卵に漏らすジャンヌの笑みのように、劇中の至る所に添えられている。

 ジャンヌにも3日間でいくつかの出来事が起きている。一点を除いて、それらはジャンヌの生活を覆すような特別な意味はないが、出来事のうち、3日目まで跨がるものはどれも不穏な結末を帯びていることに気がつく。

 例えば、1日目の夜に、妹からの手紙で予告されていた荷物。これは、3日目の午後に届く。この荷物を開けるために鋏を取り出す。(中身は絹の寝巻きだった)。2日目に、息子の靴を修理に出す。これは3日目の夕方に受け取りに行くはずだったが、ジャンヌは受け取りに行かなかった。2日目の午後の客は、なかなか帰らなかった。それは、客が来る前に火にかけた鍋料理を台無しにすることになり、ジャンヌは作り直しのため、じゃがいもを買いに出る。いつもなら体を洗っていたのだが、その時間はなく、乱れた髪型のままじゃがいもの皮を果物ナイフで剥く(これがメインビジュアルだ)。その後、帰ってきた息子に髪型を指摘されてしまう。この日、夕食は遅くなったが、いつも通り散歩には出掛る。このルーティーンの乱れ自体は2日目の夜で断ち切られているはずなのに、3日目になってもジャンヌは朝から何処となく苛立っているようだ。怠そうな靴磨き。腐ったコーヒー。カフェのいつもの席は取られていて、コーヒーを一口飲んだだけで、彼女はすぐに出ていく。泣き止まない赤ん坊と無理にあやすジャンヌ。こうした異変は、2日目の客が帰ってから始まっている。3日目に、妹からもらったコートを引っ張り出し、取れたボタンに替わるものを探しに出掛ける。アメリカ製のそのコートのボタンは珍しく、3軒回っても結局見つからない。彼女は最後の店で、昔もらったときには大きかったコートが着れるようになったというような話と共に、コートの話をいくつかする。それは、預かっていた赤ん坊を母親に返す際、その母親がジャンヌに向けてするような一方的な話口調と同じである。

 また、2日目の終わりに、ジャンヌは息子の友達のヤンを翌日の午後呼んでもいいと話す。これは、3日目は客が来ない予定だったことを意味していたのかもしれないが、ジャンヌは寝室にマットレスとタオルを引き、用意している。

 しかし、どの挿話にしても殺人の理由を説明するものではない。

 インタビューによれば、シャンタル・アケルマンスクリプトに劇中のほとんど全てのジェスチャーを記述したという。ジェスチャーを生み出すことが役者の仕事だと考えていたデルフィーヌ・セイリグは困惑した。あのアパルトメントの一室で起きたジェスチャーの数知れなさ。しかし、ジェスチャーを主体としたとき、理由はいつもの主張の強さを失ってくる。客が財布から金を取り出す間、ジャンヌは客の方を見るでもなく視線を彷徨わせる。その後、受け取った金を入れるために鉢の蓋を持ち上げ、それから、寝室の窓を開く頃にはそのジェスチャーはいつもの家事の時と同じ体に染み付いた動作に戻っているようだ。と場面を眺めたとき、売春は家事のなかに溶け込んで、彼女のルーティーンとして腑に落ちてくる。

 3日目に初めて、ジャンヌが寝室で売春しているところが映され、彼女は首をのけぞらせて不快と快楽が一緒くたになったような顔で感じたあと、のしかかっている客を雑に押し退ける。そして、徐に鋏を持ってから客の胸を刺すまでのスムーズな流れは、やはり、今までの無数のジェスチャーと同様に自然な帰結のように思えてしまうのだ。しかし、男の胸に刺さった鋏は永遠にも思えた(観客には200分の永遠だ)ルーティーンの終焉を告げ、ダイニングテーブルの中央の椅子に沈みこんだジャンヌはもう立ち上がることはなく、家事に戻ることもない。